2017年3月11日
数学教育について
いまの教育って、「解く力」ばかり育てているけど、いったい誰が得しているのだろう。教育過程を終えてから必要になるのって、与えられた問題を「解く力」ではない気がしている。
そうだね。例えば、数学だと、学校では「計算」ばかりを教わるけど、学校を卒業してから計算することはほとんどない。計算するのはエクセルの仕事。エクセルが計算してくれるように「関数」をつくるのが人間の仕事。だけど、関数のつくりかたなんて数学では習わない。
でも、数学自体の本質はそこにあるとも思う。大学に入ってから触れる数学って、手を動かしているときでさえ、計算ではなくて、式の導出であることが多い。これって、アルゴリズムをどうシンプルにするかっていうことだから、やっぱり高校までで(特にセンター試験で)求められている数値計算とは全然違う。
ということは、大学を卒業してから、研究の道に進もうが、ビジネスの道に進もうが、結局は、問題を解くよりも、自分で問題を設定できたり、問いが立てられる能力のほうが重要そうだ。
だとしたらなおさら、なんでこんな教育制度がまかり通っているのだろう。学校を卒業してからも役に立たない、生徒たちが楽しいわけでもない…。
強いていえば、ドリルつくっている会社とか?(笑)
でも、ドリルでさえも、インドとかは進んでいるんだよね。例えば、日本だと「1+1= 」というかたちで空欄があいている。けれど、インドだと「2= 」というかたちで空欄があいている。「1+1」でもいいし「2+0」でもいい。もっと進めば「1.5+0.5」と答える生徒もいるかもしれない。このような思考の方向性のほうが合っている気がする。
面白いね。アメリカの足し算は「1+□=2」で□を求めるという形式だと聞いたことがある。足し算という概念を理解するために「1+1=□」という形式である必要は全然ないね。なんで、いままで気づかなかったんだろう。
しかも、それは無用な誤解を招くかもしれない。日本方式だと「=」の意味が誤解されてしまう。「=」はあくまで計算結果というか。「→」にも置き換えられそうな記号というか。そうやって「=」の意味を誤解していると、「f(x)=x+a+1」とかいう式が出てきたときに、なにのことだかわからなくなってしまう。だって、ここでは計算しているわけではないから。こうして「=」のアイデンティティクライシスが起きると、数学は頭に入ってこなくなる。
それって、ベクトルも話にもつながるね。ベクトルって、計算問題だと誤解されて、素晴らしい道具なのに使い道が分からない人が多すぎる気がする。円を見たらベクトルが透けて見えてくるとか、ベクトルの意味が分かっていると当たり前のことなのに、なかなかそこまでベクトルが手に馴染んている人は少ない。
数学的概念を手に馴染むまで使い込むと、世の中にある問題解決のほとんどがもっと簡単になるのに、そこに到達しないと良さが分からないというジレンマ。いずれにしても、もっと教育課程で、概念を掴める力、問いを立てる力を伸ばせたら、日本の知的水準はもっと上がるだろうに……というのは本当に残念なところだ。