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平成24年度第1問
β版
(一)「物心二元論」(傍線部ア)とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ。

Schip解答

自然は全て原子に還元される無目的に物理法則に従う没価値な「物」であり、その価値や意味はあくまで人間の「心」が主観的に与えるものだという認識論のこと。(74字)

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(二)「自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讚える自己賛美を口にしなければならなくなった」(傍線部イ)とあるが、なぜそのような事態になるといえるのか、説明せよ。

Schip解答

近代以降の自然に内在した目的や意味を認めない認識論の下では、自然への賛美は、それに意味を与える主体たる人間への賛美にしかなりえないから。(68字)

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(三)「自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる」(傍線部ウ)とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。

Schip解答

自然を分解可能で没個性な存在と見なす近代科学が、人間の意味づけに基づいた一方的な自然搾取を可能にしているから。(55字)

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(四)「従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

Schip解答

人間を没個性な存在として平等に扱おうとする態度が、密かに標準的な人間像を規定し、マイノリティを周縁化して排除しているということ。(64字)

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(五)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)

Schip解答

近代科学の分析的態度は、自然を没個性な存在だと見なし、人間の欲求に従った自然利用を推進したが、一方で、構成体の相互作用の蓄積によって形成され、部分に還元不可能な個性を持つ生態系を破壊し、結果的に人間の生存さえ脅かしているということ。(116字)

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過去にAnchor利用者の方から頂いた質問への回答を元に、以下、本文を実際に読んでいく流れで解説を致します。

24年度の第一問は、結論から言うと「虎の巻」で言う所の二次元型となります。
ただ、対比が入れ子になっている部分があるので、その点だけ少し難しいかもしれません。
以下、問題文の頭から、形式段落に沿って読み進める形で解説をしてみます。

形式段落1〜3は、本文全体のテーマを述べています。
要は<近代科学の自然観が、環境問題を引き起こした自然資源の搾取を推進した>ということです。
形式段落2・3は共に「しかしながら」で始まっていますが、行っている内容はほとんどおなじです(大事なことだから二回言ったという感じ
ここまで整理した時に浮かぶ疑問は「じゃあその近代科学の自然観ってなんやねん」というところです。

形式段落4は、「近代科学とは」で始まります。つまり「その答えを今から言うぜ!」っていう宣言です。
注目すべきは最後の一文ですね。「中世までの自然観と比較して」と書いてあります。ですので、少なくともしばらくはこの「中世までの自然観」と「近代科学の自然観」の二項対立が続くことが予想されます。
また、形式段落4の最後には、「いくつかの重要な特徴がある」と書かれていますね。
とすれば次には、「近代科学の自然観」の詳しい説明が書かれていることが自然でしょう。

次を見ます。
すると、実際、形式段落5と形式段落6には、それが書かれています。
形式段落5では「機械論的自然観」、形式段落6では「原子論的な還元主義」が特徴だと言うことが述べられています。
それぞれの中身は段落に書いてある通りなので省略します。

さて、少しずつ論理が発展し始めるのが形式段落7です。
段落の最初には、「ここから第三の特徴として、物心二元論が生じてくる」とあるので、「物心二元論」は、先にあげた二つの特徴、「機械論的自然観」「原子論的な還元主義」から導き出されるものであること、つまりこれらと無関係に並列であるわけではないことに注意してください。
また、「物心二元論」の中身が二項対立的になっていることは少しわかりづらいポイントかもしれません。
ここでは、「物理学的世界」と「知覚世界」が対比されています。それぞれの中身を見ると、前者の「物理学的世界」の様子こそが、「機械論的自然観」「原子論的な還元主義」から導き出される世界像であることがわかります。
「真の実在する」のは「物理学的世界」だからこそ、逆に「知覚世界」は「一種のイメージや表象にすぎない」ことがわかるわけですね。

ここまでを整理すると、まず「中世までの自然観」と「近代科学の自然観」の対比がありましたね。
そして、「近代科学の自然観」について詳細が述べられ始めました。
そこでは、特徴として「機械論的自然観」「原子論的な還元主義」「物心二元論」の三つが提示されました。
しかしちょっと注意すべきなのは、最後の「物心二元論」は、前の二つから導かれるということでした。
「機械論的自然観」と「原子論的な還元主義」は、「真に実在する」「物理学的世界」を描き出します。それと対比することで、「一種のイメージや表象にすぎない」と言えるのが「知覚世界」であったわけです。これが「物心二元論」です。 ★この構図について理解しているかどうかを調べるのが設問(一)でした!

形式段落8・9は、その「物心二元論」について述べている段落であります。ただ、実は形式段落9は、次の形式段落10に繋がる段落でもあります。
形式段落9で始めて出てくるキーワードがあるのにお気づきでしょうか?
それは「価値」です。
形式段落10で言いたいことは、つまり<価値や意味を見出せるものは知覚世界にあるものだ。知覚世界は人間が主観的に作り出したもの、主体によって作り出されたものだ。よって、自然の価値は人間の主体が生み出したものだ(ただそこにあったもの、ではなく、僕たちが作っているものなんだ)>という論法です。
これは、形式段落9までが理解できていれば、そこに「価値」という観点を加えることで理解できますね。
★この論法について理解しているかどうかを調べるのが設問(二)でした!

形式段落11は、この話を裏返しています。「価値」の話を裏返して、「没価値」というわけです。
形式段落10では、「価値」あるものは「人間が主観的に作ったもの」と言っていました。これを裏返して、「人間が作ったものではなく、そこに存在していたもの」には「価値」がない、ということを言っているわけです。少し表現と軸足が変わっていて、「価値」という言葉が「個性」や「特殊性」という風に変わってはいますが、大きな流れとしては引き継いでいます。
形式段落11の後半と形式段落12では、「存在」である「自然」は「没価値」で「没個性」的だ、というこの主張の結果を示しています。それは、「没価値」な自然だから迷うことなく人間が利用して良いよね、という姿勢です。ここで、この本文の最初、形式段落1〜3で問題としていたことの答え合わせが出てきましたね。
★この「価値」の裏返しとしての「没価値」の議論、そしてそれが自然搾取の姿勢につながっていることの議論を理解しているかどうか調べるのが設問(三)でした!

ここまでを(説明は粗くなりますがあえて)ざっくりとまとめます。
まず出てきたのが「中世までの自然観」と「近代科学の自然観」の対比。これが第一の対比です。
「近代科学の自然観」について詳細が次に来ました。その特徴は「機械論的自然観」「原子論的な還元主義」「物心二元論」の三つ。
「物心二元論」の中身は、「物理学的世界」と「知覚世界」の対比でした。これが第二の対比。
この第二の対比に、「価値」という観点が追加されました。それにより、「価値」は「知覚世界」にあり、「物理学的世界」は「没価値・没個性」だということになりました。これにより、自然搾取を迷うことなく進める姿勢が出来上がります。
この第二の対比を持っているのは「物心二元論」、もっと言えば「近代科学の自然観」。だから、「近代科学の自然観」が自然搾取を推進したと言えるのです。

さてさて、実は、形式段落13からは、ちょっと議論がガラッと変わります。
要は、今までの「自然」に対する議論をそっくりそのまま「人間」に当てはめられるということです。
するとどうなるかというと、少し省略しながら書きますが、社会を原子のようにバラバラに分解した、個別の人間は「没個性」だということになるのです。安直にいうと、こうして成立した(近代的)「個人」という考え方が、平等と自由という概念につながった、良いことだ、という話になるのですが、筆者はここで二つの問題を提出しています。

その一つ目が「しかし」から始まる形式段落14ですね。つまり、「平等」とは言え、こうした「没個性」的な「個人」を根本に置く政治理論は、人々それぞれが持っている「アイデンティティ」や「諸条件」を無視してしまっている、それはどうなんだろうという話です。
さらに重ねて「だが」から始まるのが形式段落15ですね。ここで語られるのは、「平等」だよね、という主張そのものに対する異議です。というのも、「没個性」的な「個人」というのは、中身が空っぽ、いわば「誰でもない」のではなく、実はこれが普通だよね、という中身がかっちり決まっている、いわば「標準的な人間像」なのではないかということです。これが、その「標準」と相反しているマイノリティの人々に対する軽視を生んだのではないか、というのが筆者の味方です。
この辺りの議論をまとめたのがまさに形式段落16になります。形式段落14と15で挙げた問題は、結局「自然」に対する近代の姿勢と同じ姿勢が「人間」に対して適用されている結果だ、という話でした。
★この「人間」に対して、という議論を理解しているかどうかを調べる問題が設問(四)でした!

さてさてさてさて、クライマックスです。
形式段落17を見ましょう。冒頭に「自然の話に戻れば」とありますね。なるほど、「人間」の話に脱線したので、「自然」に戻るのか、と。
しかしちょっと注意してみると、新たなキーワードが出てくることに気づきます。それは「生態系」です。
さすがに筆者、暇ではありません。さっきとまっっったく同じ話をするわけではないのです。
ここでポイントは、形式段落18と19の前半で説明されている通り、「生態系」が「全体論的存在」であるということ、つまり、さきほどの「原子論的」な考え方の真逆だということです。
「原子論的」な考え方を取っている限りでは、「全体論的存在」である「生態系」を見誤ってしまうというわけです。そうして、人間は生態系を破壊してきました。
このことに対する筆者の感想が述べられているのが最後の一文です。筆者は「悲劇的帰結」と呼んでいます。ここでのポイントは、「人間も」「住めなくなった」ということです。この一言に、実はこの文章全体が集結しました。
つまり、人間は、人間こそが価値を与える主体だ、人間が作ったものだけが価値あるものだ、という姿勢のもと、自然を迷うことなく搾取しました。
しかし、その姿勢は、実は人間にとっての政治的・社会的問題を作り出していましたね。これが第一の悲劇です。
そして、自然搾取によって破壊された自然は、実は全体論的な、一部が欠けたら全体に影響が出てしまう、生態系でした。当然、生態系には動植物すべてが、もちろん人間も含めて、が生きています。つまり、人間はそうと気付かず、自分の生きる環境も壊していたということです。これが第二の悲劇。
この文章は、複数の対比、そして「近代科学の自然観」の「自然」に対しての話と「人間」に対しての話が行き来していましたが、最後のこの一文で、筆者は全てを一点に着地させて、ということになります。
★この構図を理解できているか調べるのが設問(五)でした!

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